津村信夫 伝

 津村信夫(1909年1月5日〜1944年6月27日)は北欧的詩情への憧憬から出発したが、しだいに質朴な生活を志向し、さらに身辺に取材する平明な叙情へと展開した。戸隠の自然と家族を愛した津村信夫はまた、生涯の師と仰いだ室生犀星や「四季」の面々からも愛されたが、3冊の詩集を残し、アディスン氏病により35歳の生涯を閉じた。

第1詩集『愛する神の歌』
昭和10年11月25日 自費出版(限定版400部/四季出版発行)

 『愛する神の歌』所収の作品は、全64編。それらは昭和6年5月から、同10年11月まで4か年半ばかりの間に発表された作品群である。昭和2年4月に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、10年3月に同学部を卒業すると、ただちに東京海上火災保険会社に勤務した。そして昭和13年夏に同社を退くまで、3か年余りをサラリーマンとして過ごしている。従ってこれらの作品群は、慶大在学中の約4か年と、約半年のサラリーマン生活とにまたがる、4か年半程の間の所産というわけになる。しかもその全64編のうち、社会人になってから発表した詩は12編にすぎないから、大半は大学時代の作品といえるのである。
 『愛する神の歌』の題名は、集中の作品の表題によったものであるが、そもそもこれにはリルケ著『愛する神の話』の題名が投影しているのであろう。そして、津村信夫にとって〈愛する神〉とは、姉(道子、昭和8年7月15日没)であり、また恋人ちであって、津村信夫はそうした愛する神たちへのこの1巻を捧げたのであった。
 集中の作品は、すべて既発表のものである。そのうち〈馬小屋で雨を待つ間〉章に収められている初期(昭和6年~8年春)の作品群の主たる発表機関は、「三田文学」「あかでもす」「四人」さらに「文学」(「詩と詩論」改題)の4詩である。そして津村信夫はすでにこの初期に、「セルパン」(昭和7年10月)、「国民新聞」(昭和8年3月)などの商雑誌にも登場していた。次いで「四季」の創刊される昭和9年10月までの間には、「セルパン」「帝国大学新聞」「文芸」「舗道」「作品」「世紀」「苑」「鷭」などが舞台になっていた。
 「四季」には、創刊号に「生涯の歌」(〈石像の歌〉章)を携えて登場するが、以後は「四季」を拠点とし、さらに「青い花」「コギト」「芸術科」「改造」「短歌研究」なども舞台として、いっそう広範な活動を展開しようという勢いを示す。――そんな折に、処女詩集『愛する神の歌』は刊行された。つまり津村信夫は処女詩集の出現以前に、すでに詩壇・文壇の人になっていて、その刊行は津村信夫の存在を一段とめざましいものにし、然からしめたといえよう。

「小扇」 津村信夫
  ――嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に――

指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

※「ミルキイ・ウエイ」とは、津村信夫が父秀松の親友の令嬢(内池省子)に命名した渾名。昭和6年春に知り合い、その夏をともに軽井沢で過ごしたが、彼女は翌7年に他家に嫁いだ。

 
第2詩集『父のゐる庭』
昭和17年11月20日 臼井書房

 『父のゐる庭』所収の作品は、全33編。それらは昭和11年1月から、同17年4月まで6か年半ばかりの間に発表された作品群である。その間は津村信夫の28歳から34歳まで、――つまり青年期から壮年期への移り行きの時期に当たっている。
 津村信夫はその過程の中で、さまざまな人生経験を味わう。まず昭和11年12月に恋人昌子と結婚し、やがて1児をもうける(昭和16年5月に長女初枝誕生)。また、昭和13年夏には東京海上火災を退職し、3か年余りにわたったサラリーマン生活に終止符をうち、おのれの方途を文筆生活の一点にしぼる。そんな懸命の賭けを試みた矢先の昭和14年12月に、彼の保護者であり、また師表でもあった父の死に遭遇するのである。
 津村信夫の懸命の賭けには、当然文筆生活による自活の企図がふくまれていたであろう。とすれば、詩から散文へという道行きが、自然に求められていたと思われる。昭和15年10月刊行の『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて発行)は、そうした行程の最初の収穫とみられる。
 『戸隠の絵本』で、津村信夫はみずから〈叙情日誌〉と称する説話体のロマンの様式を創出するが、一方でまた津村信夫なりに本格的な小説の制作にはげんでもいた。とにかく津村信夫は生活者としても、文学者としても、ようやくけわしい転機を迎えつつあったのである。しかも世情は、日中戦争から太平洋戦争へと険悪の一路をひた走っていた。
 昭和16年7月、津村信夫は追われるようにして東京から鎌倉の仮寓に移ると、戦時下の徴用を忌避し、横浜市の日産自動車会社内青年学校に教師として勤務することになった。そのため、それまで指揮をとっていた「四季」の編集実務を後進にゆだねる。
 事態はもはや、美神への奉仕に専念することを津村信夫に許容しないまでに逼迫していたのである。この詩集の中で、津村信夫は〈不自由〉とか〈不器用〉とかいうことばをしばしば用いているが、それがそんな迷路にはまりこんだ津村信夫の、やり場のない嘆声とも聞きなされる。
 この詩集の詩風は、『愛する神の歌』のそれに比して、かなり変貌をとげている。津村信夫はすでに『愛する神の歌』の後期あたりから、人生派・生活派ふうな傾向を示しはじめ、表現の華麗さや感覚の鋭利さより、静かな知性・悟性を尊ぶようになっていた。その傾向はこの詩集において、はっきり表面に出る。用語・表記の上でも簡素化が目立つのであるが、それは句続点の全面的な排除という措置に最も端的に認められるのであろう。そしてこの措置は、次の第3詩集『或る遍歴から』においても、そのままひきつがれる。
 この詩集の題名は、〈その三〉の中にある「父が庭にゐる歌」という詩の表題にちなむもの。〈あとがき〉でもしるしているように、津村信夫はこの詩集を「私の心を育ぐくんでくれたもの(父)を記念」すべく編んだのだが、かたがた壮年期の展望に立ったおのれのための、一里塚ともするつもりだったのであろう。

「父が庭にゐる歌」 津村信夫
父を喪つた冬が
あの冬の寒さが
また 私に還つてくる

父の書齋を片づけて
大きな寫眞を飾つた
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあつたが
ポケツトの
紛悦(ハンカチ)は
そのまゝにして置いた

在りし日
好んで植ゑた椿の幾株が
あへなくなつた
心に空虚(うつろ)な
部分がある
いつまでも殘つている

そう云つて話す 兄の聲に
私ははつとする程だ
父の聲だ――
そつくり
父の聲が話してゐる
私が驚くと
兄も驚いて 私の顏を見る

木屑と 星と
枯葉を吹く風音がする
暖爐の中でも鳴つてゐる

燈がともる
云ひ合せたやうに
私達兄弟は庭の方に目をやる
(さうだ いつもこの時刻だつた)
あの年の冬の寒さが
今 庭の落葉を
靜かに踏んでくる

 
第3詩集『或る遍歴から』(「新詩叢書」の第15巻)
昭和19年2月15日 湯川弘文社

 『或る遍歴から』は、津村信夫の死に先立つ4か月前に刊行されたもので、津村信夫は「若年の日の歌に、今日の詩をまじへて」(〈あとがき〉)これを編んだ。全体は、〈その一〉〈その二〉〈その三〉3章から成り、作品の総数は77編。
 〈その一〉は、第1詩集『愛する神の歌』のアンソロジーで、原著の64編のうちから27編を抄出し、さらに当時発表された2編を新たに組み入れている。それらはまさに、津村信夫のいう「若年の日の歌」にあたる。
 〈その二〉は、いわば〈羈旅編〉で、主として津村信夫の愛した信濃路の旅の日々に取材した作品、21編から成る。そのうち5編は、『愛する神の歌』からのものであるが、他は新収録の作品で、その制作時期は『父のゐる庭』のそれとほぼ重なる。つまりこの章では、「若年の日の歌」「今日の詩」が混然と配列されているわけになる(なお、この詩集には『父のゐる庭』からの作品は、まったくとられていない。同書と雁行してこの詩集が刊行されることを顧慮してあえて抄出を見送ったのであろう)。
 〈その三〉は、新収録の作品ばかりの27編。その制作時期は前章と同じく、ほぼ『父のゐる庭』のそれ重なるが、前章に1編しかみられなかった最新の昭和17年度の作品が5編加わっていて、それらが津村信夫の精神史・生活史に即して配列されている。つまりこの章はこの詩集の最も新しい、ハイーライトをなす部分といえよう。
 津村信夫がこの詩集で編んだのは、昭和17年7、8月の炎暑下のころである。当時の津村信夫にはアディスン氏病の予兆があったらしく、そんな病患と対峙しながら選定に励んだ痛ましい心事は、〈あとがき〉の文章がよく伝えている。津村信夫はこの年の春に『父のゐる庭』をまとめているので、たてつづけに2冊の詩集を編んだわけになる。両方詩集の刊行日付には1年余の開きがあるものの、その編さんは一気にされたのだった。
 この詩集の題名には昭和13年4月に発表された「或る遍歴から」という詩の表題に基づくものであろう。ただし、その詩はこの詩集の中には採られていない。ともあれ津村信夫はこの詩集で、1人の詩人の遍歴の跡を追おうとしたのである。
 簡素・純朴な詩風は、この詩集おいてきわまったといえよう。前詩集同様に、句続点はこの詩集でもほとんど除去されていて、そのために『愛する神の歌』から抄出した作品のごときは、様相が一変した印象さえうけるほどである。

「戸かくし姫」  津村信夫
山は鋸の歯の形
冬になれば 人は往かず
峯の風に 屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ
「そんなに こうこうつて鳴りますか」
私の問ひに
娘は皓い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」
初冬の山は 不開(あけず)の間
峯吹く風をききながら
不開(あけず)の間では
坊の娘がお茶をたててゐる
二十(はたち)を越すと早いものと
娘は年齢を云はなかった

 『津村信夫全集』(角川書店)より

津村信夫 伝」への1件のフィードバック

  1. アバターEPO

    こんにちは。
    小さなことですが、気づいたのでお知らせします。
    詩人の心象風景【夭折】→ 井亀あおい のページで、
    井亀あおいさんの生存期間が「1960〜1957」となっています。
    お気づきになられたら、このコメントは削除してください。
    返信も御不要です。

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