辻征夫の「雨」を読む

「雨」  辻征夫

耳たぶにときたま
妖精がきてぶらさがる
虻みたいなものだが 声は静かだ
(いまなにをしているの?)
街に降る雨を見ている
テレビは付けっぱなしだが
それはわざとしていることだ
だれもいない空間に
放映を続けるテレビ
好きなんだそういうものが
(それでなにをしているの?)
雨を見ている
雨って
ひとつぶひとつぶを見ようとすると
せわしなくて疲れるものだ
雨の向こうの
工場とか
実堤の先の
あれはなんだろう
流木だかひとだかわからない
たとえばああいうものを見ながら雨のぜんたいを
見ているのがいちばんいい
そういうものなんだ 雨は
(むずかしいのね ずいぶん)
何気ないことはんだってむずかしいさ
虹にはわからないだろうけれど
(妖精よ あなたの
雨の
ひとつぶくらいのわたしですけど)


 
雨は醜い自分をとかしてくれる。
こんな日は妖精が現われるものだ。
自分は自分である必要もなく言葉は言葉である必要もない。
あらゆる頸木から解放され自由になる。
雨が上がったら妖精に「さよなら」をいって、
自分という目的地に向かってどこまでも荒野を歩く。

久しぶりの雨だ。こんな日は感傷的になってしまう。
谷川俊太郎さんは詩作について「ある時期から自己表現というものを信じなくなった。自分をからっぽにして日本語の世界を歩き、その豊かさを取り入れたくなった。自分より日本語の総体の方が豊かだから。」と語った。
辻征夫さんには、辻さんが生まれる2年前に1歳で亡くなった長兄がいて「自分は長兄の生まれ変わりではないか」と感じていたという。この喪失感を埋めるために「見えない世界を見ようとする」感性が詩作の原点である。
現代社会の言葉は、真実を隠すために使われたり、人を騙すために使われる。虚妄の世界の言葉の方が真実を描くものなのかもしれない。だからこそ、喪失感を埋めるために詩人は詩を書くし、読者は詩を読むのである。
文学とは何のためにあるのか。福田恆存氏は「一匹と九十九匹と」というエッセイで、世の中いろんな問題が起きると、九十九匹を調整しながら解決するのが政治である。しかし、政治はすべてを救えない。最後の一匹の迷える羊、迷える人間の、その精神とか心の問題には、政治では救うことはできない。どんなにお金があっても、淋しさ、孤独、不安な心を政治には解決することはできない。そこで迷える一匹を救うのが文学だと語る。
普段は九十九匹側にいても、あっと言う間に一匹になってしまう事がある。そんな時に小説を読んだり、詩を読んだりして生きてきた。辻さんはきっと、その一匹のために詩を書いていたのかもしれない。
辻さんは「詩は個人にものであると同時に、共同体のものです。日本語なら日本語というひとつの言語の花です。詩人というのはある期間、ひとつの共同体の中で詩という言語の花を咲かせる機能を何故か持ってしまって、そういう役割を担っていつ人間のこと。」と語っている。
辻さんは一人ひとりの人間というもの、人間の善意というものを信じていたのではないか。具体的に若い人、世の中がどんな悪くなってもあとからあとから出てくる若い人、そういう人たちと作る未来を・・・。「テレビは付けっぱなしだが/それはわざとしていることだ/放映を続けるテレビ/好きなんだそういうものが」と物語っている事は、だれもいない空間だけど、いずれ誰かが来るであろう未来があるという事。今は孤独であるけど、いつかは繋がり合えるという事。
辻さんは、詩でたくさんの人に勇気を与えたり、不安な心を支えたりした。逆にいえば、そういう「みんな」が菅原さんを支えていたのかもしれない。
これからも、共同体の一員として辻さんの詩を読み続けたいと思う。

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